鑑定士のひとりごと

司馬遼太郎の幕末史観(その4)

土佐の藩風
竜馬がゆくの中で竜馬と土佐の上士とのやりとり。
・いきなり竜馬は腰をひねって抜刀した。
わっと一同は下がった。「いま天下はこのように」抜いた刀をひらひらと天空に回しながら「揺れちょる」といった。
竜馬は刀をおさめ、「それにわが土佐藩では、上士じゃの、軽格じゃの、ちゅうて相せめぎ合うちょる。もし桂浜にアメリカ船が押し寄せてくればどうなさるか。それでも、味方同士喧嘩をなさるか」
「味方同士?」たれかが、あざわらった。
「軽格づれがわれわれをつかまえて、味方同士とは、なんと無礼なことをいう。われわれが、情けによって言うちょるのはよい。しかし、軽格のほうから味方どうしなどと申すのは僭越じゃぞ。藩法をみだす不穏の考えじゃ。上下の秩序(すじめ)をきめた藩法をみだすは謀反人。さればたったいま、謀反人として討ち取るが、よいか」 笑うべきでない。
竜馬はこの場で謀反人になった。
これが土佐の藩風であった。
軽格が上士に「味方同士」といっただけで、狎れちょる、謀反であるという奇妙な論理がなりたち、即座に無礼討ちにされても、上士におとがめなしという国なのである。(竜②p205・206)  *これでは竜馬も脱藩したくなりますね。
・明治維新は、すでに桜田門外の変から始まったといっていいし、また、この変事がなければ維新は何年遅れたか、もしくは全く別のかたちのものになっていたかもしれない。
が、同じ影響でも、土佐藩のばあいは、薩摩、長州の武士と違う点があった。
土佐藩のばあい、藩公、家老、上士はなんの影響もうけず、過敏だったのは、軽格である。しかもその軽格連中が、幕府を軽蔑するのと同様、藩そのものを軽蔑しはじめた。
何度も言う。
倒幕維新の運動をやった薩長土三藩は、いずれも三百年前の関ヶ原の敗戦国である。
幕府には恨みがあった。
が、土佐藩のばあい敗戦者は旧長曾我部家の遺臣の子孫である軽格連中であり、藩公以下上士は、戦勝者であった。
自然、佐幕主義たらざるをえない。(竜②p225)

会津の藩風
・会津藩は文久以来京都守護職として京に武装駐屯し、長州派の過激分子とさんざん抗争し鳥羽伏見にあっては先鋒として奮戦し、ほとんど一手に砲火をあびた。
いわば徳川家の名誉を守るという点では、もっとも激越な忠誠藩の位置に立っている。
その忠誠という点でのあまりな過激さは前将軍、慶喜でさえこれを嫌い始め「会津藩が江戸にいてはこまる」と言い始めている。
そこが政治というものの奇怪さであろう。
会津藩は幕府から頼まれ、いやいやながらも幕府の京における盾になり、文久以来あれほど働き、京や、伏見でさんざんに流血の犠牲をはらってきたというのに、いまでは徳川家からも捨てられようとしている。
絶対恭順主義を取っている徳川慶喜としては、ともに上方から逃げ帰ってきた会津藩がいつまでも江戸にいるとこれほど不都合なことはない。(峠、中、p518)
・「会津、桑名」とひとまとめで称せられ、あたかも一つの藩のようにいわれ、言われても当然なほどにこの両藩は幕末の京にあって一つの行動をとり、いわゆる佐幕派の双璧とされてきた。
かれらが佐幕派の双璧になったのは、かならずしもその政治思想によるものではなく、運命がそうさせたのであろう。
文久二年、会津藩主松平容保は幕府から懇望されて京都守護職になり、その藩兵千人が京に常駐し、京の治安と、武力による政情安定の任務に就くことになった。
当初、この危険な任務について会津藩は主従とも極力回避しようとしたのだが、結局はそのような運命的な位置についた。(峠、下、p14)

新選組
・「幕府が浪士を募集している」と聞き、当時、江戸小石川小日向の柳町に町道場を構えていた天然理心流の近藤勇のもとに噂を持ってきたのは、藤堂平助、それに平助と同じ流儀の山南敬助である。
当時の小石川かいわいには夏からコレラがはやっていて当時下火にはなっていたが、ただでさえ流行らない田舎流儀のこの小道場には、門人がさっぱり寄り付かなくなっていた。もともと、「芋道場」と剣客仲間からばかにされていたのが、近藤の試衛館である。
中略、
近藤は土方歳三、沖田総司、らの幹部に相談し、応募に一決し、道場をたたんで文久三年二月四日小石川伝通院の会合所に集まり、他からきた二百数十人と一緒に、清河の訓示を受けた。
京にのぼったのが、その月の二十三日で洛西壬生村に分宿した。
京に着いた翌夕、清河は一同を壬生、新徳寺に集め大演説をぶった。
みな、開いた口がふさがらなかった。「京に来たのは将軍上洛の警備というのが名目だが、あくまでもそれは名目で、要は尊王攘夷の先鋒たらんとするものである。ただいまから朝廷にその旨を上書する。」この間、浪士どもの混乱、云うをまたないが、とにかく曲折を経て、大多数が江戸に帰ることになり、一部が清河と袂をわかって京に残った。
これが新選組である。(竜④p110・111)
・新選組が勤王の志士たちに恐れられ、京の街を震撼させた。それは死と隣合わせに生きた隊士たちの生きざまの裏返しでもあろう。組が組織として成熟していく過程で副長、土方歳三は局中法度5か条を作り、組の引き締めを行っている。
一、 士道に背くまじきこと。
二、 局を脱することを許さず。
三、 勝手に金策すべからず。
四、 勝手に訴訟(外部の)取り扱うべからず。
五、 私の闘争を許さず。
これを犯した者はすなわち切腹。
(燃、上、p360)

水戸の藩風
司馬氏は水戸家の独特な政治思想をこのように述べている。
・第六代将軍家宣(いえのぶ)の政治顧問であった新井白石は、「日本の元首は将軍である。天子は山城地方(京都市とその周囲)における地方的存在にすぎない」と定義した。
天皇家の権威は、そこまで衰弱した。
が、一方では徳川時代というのは、日本史上空前の教養時代であった。
その初期から国家論の研究が盛んであった。
幕府も儒教を奨励し、大名も奨励した。
儒教は一面において政治学である。君主に仕えて民を撫育する方法を研究する。
君主とは、将軍であり、大名であった。
が、別派が成立した。君主とは京におわす天子であるという説である。
この説を樹立した最大の研究機関は、皮肉にも徳川家の御三家のひとつである水戸家であった。
水戸家では代々の継続事業として大日本史を編纂し、それを歴史的にあきらかにしようとした。尊王思想が、ここから興った。
その思想が、幕末、対外問題がやかましくなるとともに、にわかに活気を帯び、勤王論まで出てきた。勤王論は尊王論から飛躍したいわば革命論で、天子を中心とした統一国家をつくり政体を単一にする以外に日本を外国の侵略から守る方法がない、という思想である。(峠、上、p279・280)
また司馬氏は水戸と薩摩藩の藩風の違いをこのようにいっている。
・余談だが、水戸藩が最も早く勤王を唱え、諸藩の志士は水戸をもって勤王の本山と仰いだものだが、その水戸人が議論と藩内闘争に明け暮れているうちに明治維新に参加できず、議論嫌いで統制主義の薩摩人が維新を起こした。というのは幕末史の皮肉と言っていい。
(竜⑤p258)

Return Top